I'm pleasewait

競技エイミング・FPS/TPS ゲームに関することや取り留めの無い日記など

何者か

自分が居なくなっても世界の大勢には何の影響もあるまい。それは事実であり、謙遜でも卑下でもないのである。人はいつか死ぬ。なにも特別なことではない。自分の存在を欠いたとしても、世界は続いていく。連日のように届く訃報の中の一つとして消化されるだけで、やがて日常に帰っていく。

 

この部屋も、100年後には別の誰かが住んでいるのだろう。かつてこの部屋に住まい、怠惰な人生を垂れ流していた人間の生き様など知る由もない。自分とて、以前の住人がどのような人物であったかを知らないのだから。自分だけ知ってもらおうというのは、いささか虫が良すぎる話に思える。漫画やゲーム、パソコンにアルバムと、自分の人生を彩り形作ってきた様々な物品が部屋に散在しているが、第三者の、それも興味のない人から見れば、これらは部屋を圧迫するガラクタの山に過ぎない。自分の生きた証など、二束三文で売り払われるか、買い手のつかない粗大ごみとして、清掃員に淡々と始末されていくのであろう。自分の生きた痕跡は消え失せ、この部屋は空き部屋として新たな住人を待つ。諸行無常

 

歴史に名の残る人物は少ない。偉大な人物だからこそ伝記物が語り継がれるのであって、自分のような有象無象の人生を記した文献があろうと、後世の人々がそれに価値を見出すとは思えない。自分のような物好きが後世にも生を受けたなら、あるいは手に取ってもらえるかもしれないが、所詮は個人の嗜好の範疇であって、歴史的に重要だとか、社会的に価値を認められるとかいうわけではない。何の教訓も示唆も成果もない、ただ生きただけの一生であるから、致し方ない。

 

分かっていたことではないか。だからこそ、好き勝手にやらせてもらおうというのだ。自分の興味の赴くままに生きて、やりたいことをやって、そのまま死んでいけばいい。それ以上に何を望むというのか。やはり、認められたいのであろうか。それなりに何らかの意味や価値があったのだと、当代の人々に持ち上げられたいのであろうか。そうなったからといって、何の慰めにもなるまいと思っていたのに、それは酸っぱい葡萄だったのだろうか。

 

しかし、今更何者かになろうと思っても、何者にもなれないのであった。自分を一言で表すとすると何か。今の自分には、中途半端という言葉が相応しいように見える。道を究めるわけでもなく、打ち込むわけでもなく、興味と称してつまみ食いを繰り返し、ただいたずらに時を消費し、何も生み出すことなく老衰していく。それが自分の望みであったか。幸運にも健康な体に生まれ、幸運にも今日まで無事に生き抜いてこれたというのに、やることはそんなことで良いのだろうか。いや、そういう方向性での動機付けは不毛であろう。それを羨む人が居たところで、交換が利くわけもなく、結局のところ、自分の問題なのである。

 

何かを成した人だからこそ、人々は興味を惹かれるのだ。何も成していない自分が何をしようと、誰も興味など持ってくれはしない。どこの馬の骨とも知れない自分を、誰が好き好んで見に来るものか。無駄なのだ。自己表現などやめてしまえばいい。そういう、自虐的な、非生産的な声が心の中でこだまする。自分の内なる声を無視することは、自分を偽ることに他ならない。投げ出そうとする願望。あらゆる活動に、常にまとわりついてくる負の思念の存在を、自分は認めざるを得ない。

 

しかしながら、では何かを成した人になろうというのであれば、やるしかないのである。多くの人たちが足を止めずに通り過ぎる中、それでも集まってくれた聴衆のために音楽を奏でる駆け出しミュージシャンのように、結局のところ、続けるしかないのである。芽が出て花が咲き誇るのが先か、下手の横好きとして死ぬのが先か。それは誰にも分からない。だが少なくとも、何もしなければ、何もないまま死ぬのである。まるで当たりもしない宝くじを買い続ける者の言い訳に聞こえるかもしれないが、そういう愚かさと心中するのも一つの生き方ではないだろうか。いや、同意を求めても仕方がない。そう思うならそう生きれば良い。それだけの話である。