I'm pleasewait

競技エイミング・FPS/TPS ゲームに関することや取り留めの無い日記など

いつ終わっても良いように

中学生の頃、美術の先生が言っていたことが印象に残っている。曰く、「いつ中断しても、それで完成と言えるように絵を描き進めなさい」と。線画の段階でも、色を塗っていく段階でも、どこで手を止めても絵として完成していることを心がけるという。自分は美術には疎い。これが何らかの流派の理念なのか、その先生の個人的な主義なのかは分からない。いずれにせよ、絵に向かう姿勢として興味深く、示唆に富んだものに思えた。

 

いつでも終わることを考えるというのは、ほどよい緊張感を与えてくれるのかもしれない。日々を過ごしていると、日常がずっと続くような感覚を抱くことがある。時間はいくらでもあるような気分になる。けれども、何事にも終わりはやってくる。もしかすると、明日には終わってしまうかもしれない。何でもない普通の日にこそ、終わりはやってくる。日常と終焉は地続きで、切り離すことはできない。

 

一日の終わりに人と別れるとき、さよならの挨拶をするとき、毎回、それが最後になってしまうかもしれないという予感がある。将来のことは誰にも分からないし、確かなことは言えない。これを最後に、永遠の別離となってしまう可能性がないわけではない。だから、なるべく丁寧に接したいと考える。それが自分との最後のやり取りになってしまうかもしれないから。特に意味のない、普段通りの他愛の無い内容で構わないけれども、もっとこうすればよかったと悔やむような形は避けたい。

 

死んでしまった後には、声は届かない。感謝も尊敬も、生きている内に伝えたい。といっても、それを伝えるのは難しい。恥ずかしいような、わざとらしいような、言葉や形にすると却って壊れてしまうような、そんな危惧を抱く。だからせめて、心残りのないように、笑顔で見送りたい。いつ終わっても良いように。

 

人や物事に対して丁寧になる一方で、その考え方は怠惰な方向性にも働いてしまうようだ。つまり、楽なことを先にして苦しいことを後回しにしてしまう。苦しいことを一生懸命やり遂げた途端に死んでしまっては割に合わないという打算が働く。思えば、夏休みの宿題を8月終盤以外に手をつけたためしがなかった。いつ終わっても良いように。なんとも締まらない話である。自分の享楽的先延ばし主義の根源はここにあるのかもしれない。