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競技エイミング・FPS/TPS ゲームに関することや取り留めの無い日記など

何のために生きるのか

何か意味があるんだろうか。自分は、自分自身を四六時中観察できる唯一の存在である。周りにはどう見えているか分からないが、少なくとも自分の所見では、自分というのは大したものではなく、飽きっぽく、怠惰で、口先だけで、取るに足らない凡夫である。このまま生きたところで、到底大業を成すことなく、よくある平凡な人生のひとつとして、特段惜しまれることなく、ひっそりとその幕を閉じていく結末が容易に想像できる。

 

自分のような人間一人がどのように生きようとも、宇宙の運行には何の影響もない。よしんば影響を及ぼせるほどの力があったところで、それが何だというのだろう。自分は預言者ではないが、一つだけ確実に言えることがある。それは、これを書いている自分も、これを読んでいるあなたも、いずれは死んでしまうということだ。50年後の花桜を拝めるかどうかすら怪しい。避けられない人生の終着点。どれだけ富を得て名声を博したとしても、死ぬ。どんな生き方を選択したとしても、死ぬ。結末だけは常に一定で変わらない。

 

形あるものいつか壊れるという。諸行無常。限りある命を費やして、何か生きた証をこの世界に刻みつけようと決心したところで、それすらもいずれは朽ちて消え失せる。技術や思想の伝承とて、その末端まで考えてみれば、やはり滅びるより他にないように思える。次の世代にバトンを繋ぐというのは、短い期間で考えれば何かを託したような気持ちになれるかもしれないが、結局のところ、次の世代も同じ問題を抱えたままである。奈落の底に向かうレールをひた走るトロッコを、身命を賭して、一生懸命修理しながら運転しているような、そんなイメージを抱く。そこまでして、このトロッコを維持する理由は何なのだろう。何のために走っているのだろう。なぜそこまで頑張れるのだろう。

 

仏教では、世界は永遠に続くのか、などといった問いかけに対する態度として、無記というものがある。つまり、回答も言及もしない。なぜならば、その答えを得るには人生は短すぎるし、たとえその答えを得たとしても、直近に迫っている悩みや苦しみの解決には繋がらないからだ。これは、毒矢の例えとして説明される。毒矢で撃たれた人に必要なのは、射手の名前や動機の追求ではなく、毒矢の治療を行うことだ。生きる意味の問いかけに関しても、同じことが言えるかもしれない。一歩引いて考えてみれば、そもそも生きる意味を考えてしまうような状況に陥っていることにこそ、何かしらの問題があるのではないか。

 

子供の頃はよかった。目に映るすべての物事が目新しく、新鮮で、刺激的で、ただ生きているだけで冒険だった。いくら時間があっても足りないくらいに、やりたいことが無数に転がり込んできた。片っ端から、それらを取り掛かっていさえすれば、いくらでも時間は過ぎ去っていった。人生の意味など、考える暇を作らずに済んだ。今はどうか。さして熱中するものがない。普通に生きていればやることはたくさんあって、そんなことを考える暇は生じないようになっているのかもしれない。社会に出れば仕事を考える。恋人ができれば付き合いを考える。結婚すれば生活を考える。子どもが生まれれば教育を考える。そうこうしている内に、あっという間に時は流れて、自然に死ぬようにできているのかもしれない。しかし自分は立ち止まってしまい、自らの人生の指針を見出せずにいる。働いて生きる糧を得たところで、そもそも生きる意味が分からない以上その先がなく、ただむなしさが募る一方だ。何のために生きるのか。

 

人生や世界に本質的な価値はないとする考え方を、虚無主義ニヒリズム)と呼ぶらしい。たしかに、そんな気がしてくる。おそらく、人生に意味はないのだろう。どうせ滅びるものに、意味を見出すことができない。どうせ死ぬなら大きいことをして死のう、歴史に名を残して死のうと野心を抱いていた時期もあった。しかし、歴史の教科書を自分の名前で1ページ増やしたところで、それが何だというのだろう。死んだ後のことは認知できない。自分が死んだところで、周りは何事もなく、日常通り、世界を続行するだろうけれども、自分の世界はそこで終わる。死後の評価は慰めにならない。

 

意味がないから辞めてしまうかといえば、そうでもない。今のところは、幸いにも、積極的にこれを終了する強い動機がない。あるとすれば、どうにもならない苦境に追い立てられた場合、とくに意味があるわけでもないことに歯を食いしばって耐える動機もないので、その時は辞めてしまうことだろう。どのみち、放っておいても終わりはやってくるのだから、急ぐ必要もない。今の自分の存在は、そういう考え方に拠るところが大きい。

 

人生には意味がない。だからこそ、各々が自由に意味を見出せる、と捉える立場もあるらしい。人生の無意味さを認めつつも、前向きに、創造的に生きる。今の自分にとっては、これが最も腑に落ちる考え方かもしれない。人生には意味がないからこそ、赴くままに、好きなことを、悔いのないようにやっていく。まるでテトリスを遊ぶかのように、自分で課題を積み上げて、自分で消化していくことに喜びを得るような、そんな程度のものなのかもしれない。そう思うと、なんとなく肩の荷が下りたような心地がする。

 

といっても、自分がすんなり何かやりたいことを見つけ出せるなら苦労しない話ではある。いろいろな分野に手を出して、自分が生涯をかけるに相応しいと思う何かを、地道に探しまわるしかないのかもしれない。その結果、「分からないまま終わる」なら、それはそれで、仕方が無い。また、思索の果てに見出した自分の生きる意味を、時代がその存在を許さないのであれば、それも仕方が無い。そのときは運が悪かったとあきらめよう。